55歳引きこもりおじさんの回顧録

ひきこもりのみなさん、お元気ですか?。私は55才です。母の年金を頼りに生きざるを得ない鬱病の化身です。8050問題の当事者で、86才の母を介護しながら暮らしてます。ジルバップ(ソニーのラジカセ)から『異邦人』という唄が聞こえていた頃、私は中二病にかかって不登校になりました。中二病といってもいろいろでしょうが、私の場合、眉間に『鬱』という一文字が烙印された、ふりかえるとそんな感じです。鬱病を生きて40年となりますが、兼好法師を真似て、ひねもすのたらのたりと、ひきこもり人生を綴ってみたいと思います。

ソープ街の七菜さん

 8050の君へ。暑いですが、衰弱してませんか?

 昭和57年の夏、中央街(熊本のソープ街)のネオンの靄が微かにかかる街路に妖しい影がたち、紫煙をくゆらせていた。街ホタルは、 娼婦らしかった。眉間の落款『鬱』の一文字が熱く痛々しく、 学生服の僕、風俗街をさ迷う少年の姿は、異様だったと思う。自販機で缶ジュースを落とし、私は電柱の下にしゃがむ。裸電球に羽虫 が蝟集し、七菜さんの横顔でもやもやと翳った。
 ロバート・デ・ニーロジョディ・フォスターが共演した『タクシードライバー』という映画がある が、七菜さんもピンヒールの踵を鳴らし、ネオンの靄から浮かびでると、カツカツと足音をたて、少年の隣にかがんだ。四十路半ばだったと思う。タイトスカートにタンクトップのシャツ、髪をかき上げながらタバコを燻らす、その袖口に青 い腋下がひらめき、香水の匂いに鮫色の腋臭がツーンっとスジをひいた。
 七菜さんは僕の缶ジュースをとり、ひと口飲むと、その指先で、眉間の『鬱』という一文字をなでた 。会話はなかった。眉間の痛みがやわらいだ。生々しい女の体温とその匂いで、ペニスがコチコチに勃起した。痛かった。
 七菜さん、少年と、筆下ろしの約束を交わすと、アイコンタクトで 客引きし、その二つの影は縺れ合い、ジャンポール鍵屋という安ホテルに消え去った。
 その夜、僕はジャンポール鍵屋のボイラー室で働く爺さんと出逢っ た。夏休みの終わりまで、八雲爺さんの風呂焚きの助手として働くこ とになるのだが、その話は次回ということで。
 ひきこもり、というと10年、20年、部屋から全く出ず閉じ籠っ ているイメージがあると思うが、そうではない。
 14才の秋に不登校となり、2年遅れで中学3年に復学した少年に とって、その夏は、ひきこもり人の『青春の門』だったと思う。 みなさんも、昼夜逆転の生活だと思いますが、NHKのラジオ深夜 便で五木寛之さんのお話は聞かれたこと、あると思います。 昭和40年生まれの私は、言の葉をいじる術を知っていて、どんな不遇な時でも、新約聖書 をよみ、そう、ナメクジに塩をかけると溶けてしまいますが、鬱病 の症状の1つに、魂がとけだしそうな、危うい時がありますね。真夏、朝陽に曳かれ朝靄が消えますが、そんな感じで、自殺する 人々は多いと思います。私も、今、その危うさの中にいますが、魂が溶けて落ちそうな時は、眉間の『鬱』に十字をきって、お祈りします。 精神疾患の症状の1つに幻覚がありますが、幻覚は免疫の1つじゃないかと、思います。それがないと、自殺 してしまうのじゃないか?。みなさんは、どう考えていますか?。では。

中2で2年間落第。

ひきこもりの皆さま、お元気ですか?。
 丘の上の中学に転校復学したのは、昭和57年のことでした。TKU放送局(熊本の民放局)が近くにあり、アパートのテレビは、 室内アンテナで受信できました。3年生の学級数は13クラスあり、3年生だけで570名ほどの生徒がいました。勉学は出来た方で、学年で上位5位から20位内で、2年も落第していましたから当然だとも言われました。ただ、欠席は多く、梅雨時に長期の欠席となり、夏休みの課題の1つに、精神衛生センターの受診が加わりました。 ダイアトーンポップスベストテンというラジオ番組があり、私は、シリア・ポールさんのDJで洋楽をしりました。ステックスのメンバーの1人、ギタリストが来日し『ボート・オン・ザ・リバー』という楽曲を、シリア・ポールさんの隣でギター1本で爪弾いた記憶、ラジオで聞いたその歌声、私の耳は貝のみみ、じゃないですが、蘇ります。ひきこもりの最中、『ザ・ゲーム』というクイーンのアルバムの中で繰り返し聞いたのは、『セーブ・ミー』 でした。兎に角、ひきこもり、という淀みから抜け出したいという気持ちが 、少年時代の私にはありました。

『異邦人』の歌詞の一節に
 子供たちが、空にむかい、両手をひろげ、鳥や雲や、夢までも、つかもうとしている♪その姿は、昨日までの、何も知らない私、あなたに♪この指が、届くと、信じていた♪とありますが、あなた、とは、その頃、私にとってイエス様でした。

水道町交差点から健軍ゆきの路面電車に揺られると、大甲橋があります。昭和57年、熊本精神衛生センターは、その橋の近くに、白川右岸緑地公園通りの大樹の下にありました。精神科医の手で眉間に『鬱』という一文字を烙印されたのが、あの夏の日でした。白川の水面に夏の光がはねていました。鬱病の薬と睡眠導入剤を処方され、私は精神疾患の仲間入りをした訳ですね。 ただ、17才の私には病識がなく、 白川右岸緑地公園のベンチにかけ、神様に、夕陽に手を翳していました。また、青い鳥が飛来し、天使が救いの手を差しのべてれること、信じていました。

ひきこもりの最中で、イエス様に出逢ったこと、イエス様はランタンを持って、私たち一人一人の心のドアをノックされていること。ポール・マッカートニーも、唄ってましたね。

あの夏を境に、私は眉間に烙印された『鬱』という一文字と生きることになりました。

ある意味で、病名がつくと、ひきこもりの枠から除外されると思います。ただ、鬱病を患うと、学業就業に支障がでて、ひきこもらず得なくなりますね。これを、社会的ひきこもり、というそうですが、この淀みにはまるとなかなか抜け出せない。

私は30才から25年間、無職無収入の状態ですが、母の介護が仕事で食べてはいます。この境遇をどう後始末するか、自分の力では解決方法がわからず 、社協の相談窓口に相談して2年ですが、状況は変わりません。

私の耳は貝のみみ、海の響きをなつかしむ
あの夏、少年は熊本市の中央街に迷い込みました。
ジャンポール鍵屋の話、次はお話しします。

引きこもりおじさん、自己紹介。

ひきこもりのみなさん、お元気ですか?。私は55才です。母の年金を頼りに生きざるを得ない鬱病の化身です。8050問題の当事者で、86才の母を介護しながら暮らしてます。ジルバップ(ソニーのラジカセ)から『異邦人』という唄が聞こえていた頃、私は中二病にかかって不登校になりました。中二病といってもいろいろでしょうが、私の場合、眉間に『鬱』という一文字が烙印された、ふりかえるとそんな感じです。鬱病を生きて40年となりますが、兼好法師を真似て、ひねもすのたらのたりと、ひきこもり人生を綴ってみたいと思います。

昭和54年、熊本県内には登校拒否児童数は10人確認されているか、いないかの時代でした。昼夜逆転の生活の中で、読書、ラジオ、テレビ、が友達でした。今回はその当時、RKK放送(熊本の民放)で深夜放送されたテレビ映画でみた作品『幸せの旅路』について、語ってみたいと思います。ロードムービー🎦が流行していた時代の作品でDVDにされていない映画です。登場人物は、ハリソン・フォードサリー・フィールド、後、名前でてきませんが、ゴッドファーザーの長男ソニーを演じた俳優さんが登場してたと思います。岩崎宏美のオデコみたいなブラウン管テレビに、ベトナム戦争で精神を病み、一個の箱を大事に抱きしめ帰郷する帰還兵、都会での生活に疲れ帰郷し親の縁談話にのろうとする女、ふたりはバスの中で出逢います。ストリーは皆さま、ご自分で検索されてください。昭和54年、ちょうど3年B組金八先生が放送開始されましたが、その当事、義務教育でも落第がありました。私は2年間ひきこもり、義務教育で2年落第し、熊本市内の丘の上の中学に転校復学しました。17才の中学3年生を経験しました。ひきこもりの闇から、光の世界に導いてくれたのは、黎明にあらわれた『青い鳥』でした。それが、精神疾患の症状の1つ幻覚か、神様の使いか?、それを探してここまで生きて来ました。16才の僕は、それを神様の使い、と信じまして、ポケット聖書を学生服の胸ポケットにしのばせ、ひきこもりに終止符を打って、上熊本行きの電車に揺られたのです。人生の転機には、駅、バス停、つきものだと思います。『幸せの旅路』では、バス停やバスターミナルで、二人の男女がののしりあい、励まし合い、心の内を語り合い、二人の間に愛が育まれるのですが、ベトナム帰還兵の小箱にはミミズが入っていて、帰郷しミミズ養殖業になるのが、生きる希望で、そんな心病む帰還兵に寄り添い生きることを、ヒロインは選択します。サリー・フィールドは、フォレスト・ガンプの母親役も演じましたが、ノーマ・レイでもそうですが、新約聖書に登場する『ベロニカ』を彷彿とさせる役作りをされた女優さんだと思います。

 聖母とは、自分の母親のこと。眉間に烙印された『鬱』という一文字を指先でなぞりながら、40年の鬱病生活でそれを実感しています。若い頃は、教会に出掛け、ベロニカはいないかと、探しました。天国は、地球であることも、近頃、実感してます。

ただ、8050問題の最中にいて、パチスロ自傷行為となり、散財しては、自殺のヒキガネをいつ引こうか、と脳が痺れる日々で、鬱病生活の末期を生きていること、実感しています。

丘の上の中学に復学した頃の話、次は語ります。