55歳引きこもりおじさんの回顧録

ひきこもりのみなさん、お元気ですか?。私は55才です。母の年金を頼りに生きざるを得ない鬱病の化身です。8050問題の当事者で、86才の母を介護しながら暮らしてます。ジルバップ(ソニーのラジカセ)から『異邦人』という唄が聞こえていた頃、私は中二病にかかって不登校になりました。中二病といってもいろいろでしょうが、私の場合、眉間に『鬱』という一文字が烙印された、ふりかえるとそんな感じです。鬱病を生きて40年となりますが、兼好法師を真似て、ひねもすのたらのたりと、ひきこもり人生を綴ってみたいと思います。

中2で2年間落第。

ひきこもりの皆さま、お元気ですか?。
 丘の上の中学に転校復学したのは、昭和57年のことでした。TKU放送局(熊本の民放局)が近くにあり、アパートのテレビは、 室内アンテナで受信できました。3年生の学級数は13クラスあり、3年生だけで570名ほどの生徒がいました。勉学は出来た方で、学年で上位5位から20位内で、2年も落第していましたから当然だとも言われました。ただ、欠席は多く、梅雨時に長期の欠席となり、夏休みの課題の1つに、精神衛生センターの受診が加わりました。 ダイアトーンポップスベストテンというラジオ番組があり、私は、シリア・ポールさんのDJで洋楽をしりました。ステックスのメンバーの1人、ギタリストが来日し『ボート・オン・ザ・リバー』という楽曲を、シリア・ポールさんの隣でギター1本で爪弾いた記憶、ラジオで聞いたその歌声、私の耳は貝のみみ、じゃないですが、蘇ります。ひきこもりの最中、『ザ・ゲーム』というクイーンのアルバムの中で繰り返し聞いたのは、『セーブ・ミー』 でした。兎に角、ひきこもり、という淀みから抜け出したいという気持ちが 、少年時代の私にはありました。

『異邦人』の歌詞の一節に
 子供たちが、空にむかい、両手をひろげ、鳥や雲や、夢までも、つかもうとしている♪その姿は、昨日までの、何も知らない私、あなたに♪この指が、届くと、信じていた♪とありますが、あなた、とは、その頃、私にとってイエス様でした。

水道町交差点から健軍ゆきの路面電車に揺られると、大甲橋があります。昭和57年、熊本精神衛生センターは、その橋の近くに、白川右岸緑地公園通りの大樹の下にありました。精神科医の手で眉間に『鬱』という一文字を烙印されたのが、あの夏の日でした。白川の水面に夏の光がはねていました。鬱病の薬と睡眠導入剤を処方され、私は精神疾患の仲間入りをした訳ですね。 ただ、17才の私には病識がなく、 白川右岸緑地公園のベンチにかけ、神様に、夕陽に手を翳していました。また、青い鳥が飛来し、天使が救いの手を差しのべてれること、信じていました。

ひきこもりの最中で、イエス様に出逢ったこと、イエス様はランタンを持って、私たち一人一人の心のドアをノックされていること。ポール・マッカートニーも、唄ってましたね。

あの夏を境に、私は眉間に烙印された『鬱』という一文字と生きることになりました。

ある意味で、病名がつくと、ひきこもりの枠から除外されると思います。ただ、鬱病を患うと、学業就業に支障がでて、ひきこもらず得なくなりますね。これを、社会的ひきこもり、というそうですが、この淀みにはまるとなかなか抜け出せない。

私は30才から25年間、無職無収入の状態ですが、母の介護が仕事で食べてはいます。この境遇をどう後始末するか、自分の力では解決方法がわからず 、社協の相談窓口に相談して2年ですが、状況は変わりません。

私の耳は貝のみみ、海の響きをなつかしむ
あの夏、少年は熊本市の中央街に迷い込みました。
ジャンポール鍵屋の話、次はお話しします。